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月: 2012年4月

見下すことができる人って。

相手によって明らかに態度を変える人っていますよね。好きか嫌いかで態度が変わるのは理解できるんです。世の中、どうしてか分からないけど苦手な相手というのもいます。だから、親しみを込められるかどうかという差があるのは当然だと思います。だけど、自分よりも立場が上か下かで、がらりと態度が変わる人を見ると、なぜそのようなことができるのか不思議で仕方がないのです。

仕事をする中で、管理する側とされる側、仕事を発注する側と請ける側、そういった立場の違いはあるでしょう。お金を払う側はもらう側に対して少しワガママを言いたくなることもあるかもしれない。上司と部下では、よく考えてみればどちらが上でもない気もするけど、まぁ、上司は部下に指示を出すものです。雇う側と雇われる側では、雇う側の立場が強くなるのでしょう。でも、そういう関係の人と人が、仕事をしている時でさえ、偉いも偉くないもないと思うのです。もちろん雇われる側や評価される側は、自分の立場を守りたいから相手を持ち上げることもあるでしょう。でも、その逆は成り立たないような気がして仕方がないのです。

今まで、私が一に働く機会を得た上司や同僚たちは皆、私に仕事を「やらせる」のではなく「してもらう」というスタンスの人ばかりでした。職種的に、誰かに作業を依頼されて仕事が発生する、ということが多かったのですが、どちらかというと、もっと堂々と(?)仕事を振ってくれていいのになぁ、と思っていました。そのために私はここにいるのだから、と。でも、そういうことと、私が人としてへりくだること/私を人として見下すことは、まったく別の話なわけです。

落ち着いて考えてみれば、これまでの人生で自分が見下された態度をとられたことってないような気がします。上下関係がハッキリしている大学時代の恩師と弟子という関係の間柄でさえ、見下されていると感じたことはありません。

でも、仕事をしていて、誰かが誰かを見下した態度をとっているのを目にする機会の多さと言ったらもう・・・ある仕事での元請け/下請けの関係だとか、ある会社内の職種の違う人たちの関係だとか・・・ビックリするぐらい不愉快になります。特に今いる業界に顕著な気もしますが。

もちろん、たかだか数日間、垣間見ただけの私がとやかく言えないような事情があるのかもしれません。日々、一緒に働いていてるうちに、そういう関係が生まれてしまったのだろうし。

それにしたって、自分が生まれてきた時にはすでに働いていたであろう相手に対する態度として、それは明らかに間違っていると思うよ、と声を大にして言いたかったのでした。しかも、自分も誰かの下で指示を受けながら動いている立場のくせに。

そして、それ以外にも色々なパターンを続けて目にしたもので、自分が見下されたわけでもないのに、なんというか澱のようなものが心の底に溜まってしまった感じだったので、51%を保つために吐き出してみました。

痛い思いをして気がつくこと。

前々から、兄の家で使ってた折り畳めるテーブル脚が欲しいなと思っていたのですが。

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イメージ図(via SOUP by SUPPE

3年ぐらい前だったか、父に「人間は普段あるはずのないところにあるものを認識しないし一番近いものに最初に焦点を当てるから、テーブルの天板よりも脚が出ていると必ず躓く」と反対されてなんとなく納得できない思いを抱えつつも、探すのも面倒で普通のテーブルを買ったことがありました。

で、つい先日の話。某社の社長室に伺ったのですが、応接テーブルの天板が大きな一枚板だったんです。

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イメージ図(via ウッドワークの工房便り

で、ソファに座ろうとした瞬間、ガツンと向こう脛をぶつけて悶絶。確かに、普段の生活ではあり得ないテーブルの厚み部分が下に行くほど拡がっている状況で私の眼から一番距離の近い上端の縁を捉えたわけで・・・・目測を誤りました。

やはり、年功者の言うことは聞くべきだと、ようやく納得できたのでした。

木曽へ行ってきた。

先週、名古屋経由で木曽に行ってきました。長野県はスキーで何度も行ってるけど、木曽は初めてでした。やたらと石垣が多いところだな、というのが一番印象に残ってます。ずっとクネクネした道の脇を川が流れていて、なんだか気分が良かった。

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これは、最後に立ち寄った倉庫の裏に流れていた川。すぐ横まで下りていくことができて良かった。

51%を保つ。

最近、週1で山王指圧センターというところに通っています。(ついでに週1で推拿にも通っているので、週2でメンテしてもらってようやく人並みの生活w)山王指圧は整体師が(たぶん)4人いるのですが、そのうちの1人がよく「自分を51%に保つ」と言っているのを耳にしてずっと気になっていました。

たとえば、東京に出てくると人ごみとそのスピードの速さに疲れてしまうという話をしていると、他人がそこにいることを気にしたり他人にペースを崩されることで、自分の中に他人が入り込んでしまい、その「他人」が自分の中で占める割合が51%以上になってしまうと、自分がヘトヘトになってしまい回復も遅くなってしまうというのです。

そして、それは人付き合いにも同じことが言えるし、生きている間に起こるすべてのことに通じるのではないかというわけです。逆に自分が51%を占めていれば、惑わされることも少なく、平静を保てるのではないかということを説いてました。

他にもたとえば、自分の身内ではない人が亡くなった時。お葬式に参列する時も、後からお悔やみに伺う時も、もちろん哀悼の意を表するのは当然だし、相手に同調することも時には必要だけれども、自分の内側に入れる割合が半分を超えなければ、自分が必要以上に悲しみ、それを引きずり続けることもなくなる。そうすれば、自分の心の安定を保つことが、少しは容易になるはずで、その分身体の調子もコントロールしやすくなるというのです。

私はよく相手の話を自分に置き換えて考えてしまうし、相手の悪意に当たってしまうとしばらく立ち直ることが出来ないことも多々。最近はさすがに鈍感になってきたけれど、いろんな感情がうごめくところを素通りするだけでもグッタリしてしまう体質だったので、この考え方を身に付ければ、ものすごく楽になれるんじゃないかと思ったのです。

そうは言っても、先日は母の姉のお姑さんが亡くなったということでお通夜と告別式に参列してきた時に、お通夜、告別式の間はずっと、「51%、51%・・・」と思って凌げたのですが、告別式の後、火葬場・お墓にも一緒に行かないかと伯母に言われ、母が同意した途端に激しく動揺してしまい、最後のお別れは当然遠慮したし、ロビーで待っている間にどうにもこうにも落ち着かなくなって完全にアウトオブコントロールに陥ってしまいましたが・・・

94歳の大往生、お彼岸だったので隣りの部屋でお経をあげているのを聞きながら旅立ったのではないかと思われるので、ご家族もみんな晴れやかに見送っていたにも関わらず、しかも私はそのおばあちゃんには3回お会いしたかどうか・・とにかく親しい間柄ではなかったわけで、子供も孫も泣いてないのに、他人の私が泣くっておかしいだろ・・・と必死に冷静になろうと試みたり、これは私には直接関係のあることじゃない、他人の悲しみを自分に置き換えてしまうのは、他人が51%になってることと同じ!と理論的に考えようともしたのですが、正直自分でもお手上げでした。仕方なく母に「やっぱり火葬場に行くのは無理」と伝えた後、ダッシュでトイレに逃げ込み号泣・・・。

1年前に父方の祖父を事故で亡くし、日常生活ではどうにか涙をこらえることが出来る程度には落ち着いてきましたが、あまりに自分の「悲しみ」と向き合わざるを得ない状況に追い込まれると、理性なんて簡単に吹っ飛んでしまうようです。

と、まぁ、まだまだ青いわけなんですが・・・だったらむしろ、これをまだ決まっていない今年の目標にしてみようかなということで。

その整体師の方は、写経をしたり山伏修行をしたりしているそうで。さすがに私はそこまで出来ないし、今年中に達成できるとはちっとも思えませんがw

とりあえず、「51%」を常に念頭に置いて、頑張ってみます。