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命日。

この年になれば普通のことかもしれないけれど、4人いた祖父母はもう誰もいない。生まれた時に全員揃っている上に父方の曽祖父母までいたというのは十分ラッキーなことだったと思うけれど、祖父母の家に遊びに行くのが好きだった私にとって、もう誰もいないというのは淋しいだけではなくつまらないことだ。

父方の祖母が亡くなったのは私が小2の時、祖母は57歳だった。お葬式は自宅で行い、まだ土葬だった。亡くなったのは1月だったので告別式当日、出棺を待つ間とても寒くて、気を紛らわすためにすぐ近くにあった伽羅木の葉っぱで手裏剣を作っていたことを覚えている。

祖母のことが大好きだった私は、亡くなってから何かの折に「毎日おばあちゃんのことを思い出すからね」と手紙を書いた。兄にはそんなこと出来るわけがないと言われたけれど、かなり大きくなるまで本当に毎日思い出していた。

その12年後の3月に父方の曾祖母が亡くなった。お葬式の日に99歳の曽祖父が泣いていたのが印象的だった。その曽祖父は、翌年の2月に100歳の誕生日を迎えてすぐ大往生。

そして13年後、今から9年前の7月。母方の祖母が94歳で亡くなった。亡くなる前日、危篤の知らせを受けて病院へかけつけた。別の階に入院していた祖父が車椅子でベッドのそばにきた時、祖母の手が祖父を探すように動き、祖父がその手を握っているのを見て、不謹慎かもしれないけれど初めて「結婚っていいものだな」と思った。

お葬式の時は、所在なげに座っている祖父の気持ちを思うと泣けてきたけれど、自分自身の悲しみとしてはさほど感じることが出来ず、むしろ晩年の祖母に対して優しくできなかった晩年のことを思って罪悪感ばかりが募っていた。

その翌年、どんなに身体が不自由になっても前向きに生きていた記憶力抜群の母方の祖父が、祖母を喪ってどんどん生きる気力をなくし、10月に98歳で亡くなった。最後の頃は身体中が痛いようで、ほとんど眠っていたけれど痛い痛いと悲鳴をあげていたので、楽になれて良かったなとホッとした。毎日とまではいかないまでも、頻繁にお見舞いに行くこともできたので自分の中でも納得できたし整理もついた。

2年続けて祖父母を失くすというのはつらいことだったけれど、これからまた少しの間は安心していられると思っていた。父方の祖父が一人で暮らしていることは気になっていたけれど、少し足腰は弱ってきたけれど農作業も続けているし、まだ10年単位で大丈夫だと思っていた。

そして年が明けて3月、震災が起きた。その場で祖父に電話をした。だいぶ時間が経ってからようやくつながった祖父は運転中で地震には気が付かなかったと言っていた。祖父らしいなと笑ってしまった。翌週、家に祖父の様子を見に行ったけれど、いつも通りの祖父だったので安心した。その後の余震で私の方が精神的に参っていたこと、ちょうど田植えの準備の時期で手伝うのが嫌だったことなどがあり、父は何度も行っていたけれど私はそれきり行かなかった。ゴールデンウィークには行くことが決まっていたからすぐまた会えると思っていたというのもある。

だけど、その前に祖父は事故で亡くなってしまった

今なら分かる。本当は祖父がすっかり年を取ってしまったことに目を向けたくなかったんだ。いつだったか、仕事関係の人が家に来てみんなでお酒を飲んでいた時に祖父がトイレに立ったのだけど、その足取りの危うさとそれを見た父が祖父のズボンのベルト通しに指を引っ掛けて、祖父が倒れないようにトイレまで連れて行った姿が頭から離れなかった。そんな姿を見たくなかった。だからこそ行くべきだったのに、行かなかった。そして心の準備も何もないまま、いきなり絶たれた。

祖父が生きていたら93歳。事故がなくてもまだ生きていたかどうか分からないけれど。もう心の中ではすっかり受け止めているけれど。今でも不意にトラクターを見たりウグイスの鳴き声を聞くと涙が出る。

そんな祖父の命日である今日。今年はまだウグイスの声を聞いていない。

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