真夜中、久しぶりに泣く夢を見た。大学院受験の教室で、審査員たちのあまりの白け具合に、あぁ落ちたな・・・と思った後、場所も時も変わって、たぶん今の年齢になっていたのだと思うけれど、母に「私がピアノをやめなくちゃいけなかったのは、ただ才能がなかったからだね」と泣きながら自分で認め、母の悲しそうな顔を見たところで目が覚めたら、現実にも泣いていた。目が覚めてからも、そうだよなぁ・・・あんな程度の演奏しか出来ないんだもん、続けてても仕方なかったよなと思って、さらに泣けてきたので、温かい飲み物でも飲んで落ち着こうと起きて、一口飲んで我に返った。これは本当の記憶じゃない、ただの夢だ。
実際の記憶はこっち。もちろん確かに「あぁ落ちたな・・・」と思った試験もあったけど。でも、それはもうやめると決意をした後のことだし、練習もせずレッスンも受けず、やる気ゼロで向かったので当然の結果。
大学の恩師の母国へ留学し、初日から40度近い熱を出したことも、練習用のピアノが見つからないことも、師事するはずだった教授が不在の間、同い年のアシスタントからレッスンを受けることも耐えたのに。戻ってきた教授とのレッスンは楽しかったけど、冬季は3ヶ月ほど学校が閉まると聞いて、この国にはこれ以上いても無駄だと帰国することに決めた。
次に行く先を求めてウィーンで先生探しをした時には、大学の(見ず知らずの)先輩を頼って面識のない先生のレッスン室のドアを叩いてピアノを聞いてもらい、君は日本人にしては感情のこもった演奏をするねと気に入ってくれた教授の自宅レッスンを受けたのだけど、レッスンを終えた後のお茶の時間に教授が笑顔で私のピアノについてコメントをしてくれていたのに、それを訳してくれた教授の妻(日本人)曰く、あなたには才能がない。曲に感情がまったくなく聴いていても心に何も響かない、はっきり言って音楽を演奏する資格がないと思うとのこと。もうピアノはやめます、これ以上続ける気力がありません、と泣きながら(前述とは別の)恩師に伝えて日本に帰国。現地でピアノを貸してくれた日本人調律師にお礼と報告の電話をかけると、いくらなんでもそんな言い方をするわけがない、そう思っているならそもそもレッスンなんてしなくてもよいわけで、彼らはドライだから受からないと思う人には気を持たせるようなことはせずきちんと伝え、受験目的のレッスンはしないはずと言われた。数日経って改めて電話をかけてきてくれたところによると、その教授の妻は自分が生徒の時に略奪婚をしている(しかも自分で3人目)ので、日本から生徒が来るとそのような嫌がらせをするとのこと。そんなところへ師事する気にはならないので願書は取り寄せたものの、出願はしなかった。
最後のチャンスとなったアメリカでは、私の母校で教えていた外国人客員教授から、紹介はできないけれど自分の名前を出せばピアノを聞いてくれるぐらいのことはしてくれるだろうと自分の生徒の元恩師の名前を挙げてもらい、その先生のいる大学の事務局からメールアドレスを教えてもらい、ぜひピアノを聞いてほしいというメールを送ったら、1月はこの1週間しか自宅にはいないので、そこに合わせて来られるのであればレッスンしましょうとのこと。また恩師の遠い親戚がたまたまその大学にいるので紹介してもらった。もし今回レッスンを受ける先生が気に入ればいいけど、もし合わないと思えば別の先生を紹介してあげると言われ、心強い味方を得た気がした。実際に、その先生のレッスンを受けて、ぜひ生徒になって欲しいと言われたし、先生自身もとても素晴らしい演奏をする方だったのだけど、ブラジル出身でラテン系のレパートリーが多く、その先生が演奏するととてもかっこ良いのだけど、ドイツ系の作品に合う私の音では弾きこなせる自信がなく、とりあえず別のアメリカ人の先生も紹介してもらうことにした。そして、そちらの先生にも気に入られ、入試までの間、レッスンをするからずっと滞在していなさい、そして新学期が始まる9月はちょっと演奏ツアーに出るから、ビザ取得のために一時帰国する必要があるだろうけど、新学期前にレッスンしたいからまたすぐ渡米しなさいとまで言ってくれた。そしてホテルを出てホームステイをしながら何度かレッスンを受け、2月の試験当日。バッハの平均律に始まり、ベートーヴェンソナタ、シューマンの幻想曲、ガーシュウィンのプレリュードを弾き、ノリノリの雰囲気で試験を終え、会場を出たら後ろからブラジル人の先生が追いかけてきてハイテンションで絶対キミを生徒にしたいと言い、角を曲がったらアメリカ人の先生が待ち構えていて、ブラジル人の先生には私から話しておくから、キミは私の生徒だよ、と言って去って行った。
本当はすべり止めのつもりだったこの大学で、とても楽しく過ごせそうな気がした。実際、試験までの1ヶ月間滞在をして、あぁここが私の居場所だと感じたこの場所でようやくのびのびピアノが弾けるんだなぁと思いながらも、一応本命のもう一校の試験が1ヶ月後にあり、まだ一度もレッスンを受けていない課題曲もあり、一度帰国をしたその夜。恩師に報告の電話をしているところへ、恩師の親戚から恩師宛にキャッチホンが入った。それが三度目の悪夢の始まり。
その夜、何度恩師に電話をかけてもつながらず、そんなに長く何を話しているんだろう。その夜は遅くなってしまったので諦め、翌日の夜再びかけ直すと、恩師の旦那さんが出た。「あぁ・・・◯◯さんね。ちょっと待っててくださいね。」長々と待たされた後、恩師の「アナタ、なんてことしてくれたの」という怒りの声が聞こえてきた。
前夜の親戚からの電話は私に関する苦情だった。私がいかに礼儀知らずだったか、いかに遊び呆けていたか、いかに他の日本人留学生たちに悪影響を与えたか。そして挙げ句の果ては恩師の悪口を言っていたと。どうやったらそこまで嘘をつけるのか、未だに理解に苦しむほどのデタラメばかり。それぞれ語った出来事は確かにあったことだけど、私の取った行動や結果はすべて嘘。人が悪意を持って嘘をついたり人を傷つけようとすること、恩師とはその頃すでに10年近い付き合いだったにも関わらず何をどう説明しても信じてもらえなかったことの両方がショックで、本当に久しぶりに声を上げて泣いた。
何も悪いことをしていないのに、なぜこんな目に遭うんだろう。ピアノなんて弾いているからこんなに嫌な目にばかり遭うんだ、今度こそ本当にピアノは辞める。とりあえず飛行機とホテルを取ってしまっていた学校の入試だけ受けに行き、もちろん玉砕した後、アメリカ人の先生には長い長い手紙を書き、もう普通に働こうと仕事探しを始めました。英会話教室の受付を始め、それなりに楽しんでいた夏のある日、アメリカ人の先生から手紙が届いた。しばらく家を空けていたけれど、ツアーの合間に家に戻ったら出したつもりでいた返信の封筒が食卓の上に置いてあるのを見つけて慌てて書き直していますという書き出しで始まり、一人の、私の専攻には関係のない人との誤解が理由でアメリカで学ぶチャンスを棒に振るなんて間違っている。事務局には私から掛け合うからもう一度I-20(入学許可証)を発行してもらって今すぐアメリカ大使館の予約を取りなさい、という内容だった。誤解、misunderstandingという一言で片付けるにはちょっと事が大きい気がしたけれど、わざわざ改めて手紙を書き直してくれた先生の気持ちが嬉しくて、先生に電話をかけ、学校にも電話をし、クラス分けの試験は先に受けに来てもらわないと困るけど、そのあとはいったん帰国して学生ビザを発行してもらってから入学手続きを始めるからと学費納入期限を延ばしてもらい、夏休み中の8月末に再び渡米。クラス分け試験を受け、入試の時に仲良くなった別の大学に留学して(転校するために受験して)いた日本人の女の子と一緒に廊下を歩いていたら、夏休みでいないはずの恩師の親戚が前から歩いて来た。その瞬間の、私はもうこの学校には来ないと思っていた相手の「やばっ」という表情と、顔を見た時の自分の怒りと殴りかかりたいほどの衝動を目の当たりにして、この状況で2年間ここで過ごすのは無理だと悟り、それまでは何も悪いことをしていないのにと思っている自分が実は一番嫌なヤツで、アメリカでもウィーンでも気付かないうちに相手を不快にさせていたのかもしれないと思うことも増えていたけれど、あの一瞬の表情を見て、あぁ、やっぱり理不尽な嫌がらせをされたんだなと思い、隣りを歩いていた子も、私の話を聞いてもこちらに非がないのにそんなことする人がいるのか半信半疑だったけど、あの表情見た?やっぱりまゆみちゃん悪くないよ。悪だくみを見つかって今にも逃げ出しそうな顔してたよねと言ってくれたのを聞いて、ようやく自分には非がなかったんだと思えた。
日本に帰って、I-20を破り捨て、ピアノからは離れようと決めた後、某社で秘書として働き始め、ピアノを弾いていない私のことを受け入れてくれる人たちがいるという今から考えればごく当然のことが嬉しくて、この人たちにピアノを聞いて欲しいなと思い、その社屋の向かいにあるビルのオープンスペースで友人とデュオコンサートを開き、その日を境に一切ピアノに触らなくなった。
これが(もうずいぶん前のことなので記憶も曖昧にはなってきてるけど)ピアノをやめた本当の理由。夜中に目が覚めた時の「入試での手応えのなさから自分の才能に見切りをつけた」という夢が記憶にすり替わりそうな感覚があまりに怖かったので、一度書いたはずだけどどこかに消えてしまったこの一連の出来事を改めて文章に書きだすことにした。すっかり克服した気になっていたけど、やっぱり今でも痛いなぁと文字通り痛感した。