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カテゴリー: monologue

脳内会議が活発化してます。

久しぶりにヘッドハンターから転職のお誘いが来た。紹介先の会社を見ると、なるほど確かに私の経歴はマッチすると思われるだろうなという印象。

今の家に引っ越す前なら考えたんだけどなぁ…私が引越しを熱望した理由の一つが通勤時間が辛すぎるということだったので、今さら逆方向に同じ時間かけて通う気にはなれない。

だけど、今回メールを受け取って、ずっと心の中でくすぶっている火種が強くなってしまった。とりあえず社会復帰をするために慣れた会社に派遣で戻るという選択をしたけれど、無期雇用になるまでいるつもりはなかったはずなんだよなぁ(´ー`) 今の職場でいわゆる定年の年齢までいることを考えると憂鬱でしかないけど、仕事以外の面で考えると今の会社にいられるのは色々と好ましいのが悩みどころ。

ただ、今から転職したら、静岡に引っ越すという選択肢は完全に消える。また家探しに難儀するのは目に見えているので、その選択肢は無いに等しいんだけど、それでもこのまま別居状態を続けていいのかなという気持ちは常にあるので、その可能性をなくすのは気が進まない。完全リモートもしくは基本リモートでたまの出社は新幹線通勤もアリという今の職場と同じ条件の会社に転職できれば文句ないけど。

今の仕事は完全在宅勤務で通勤なし/早起きなし/猫と一緒に働ける/その気になれば静岡に帯同も可能、という文句なしの環境なんだけど、いかんせん仕事内容がつまらないからいつまでも悩むんだよなぁ。さっさと動けと思いつつ、ここまで人との接触を避けた生活をしてくると、やっぱりこの状況下に外に出るのは怖いと思ってしまう。堂々巡りだなぁ。

片頭痛が減った理由。

在宅勤務になってから片頭痛に悩まされることが減った理由を色々考えているんだけど。

1) 通勤のストレスがない
2) 睡眠時間を確保できている
3) エアコンを自分でコントロールできる
4) 眩しさもコントロールできる
5) 香水/柔軟剤/タバコの匂いに煩わされない

もともと月1で脳外に定期通院して、毎回最大の10錠処方してもらって大体飲み切ってたのが、在宅になってからは10錠飲み切る直前に行くのが3ヶ月に1回ぐらいになって、つい先週行った時にお薬手帳見たら前回は半年前だったことに気がついた。

1) パーソナルゾーン広めな人間には通勤電車は地獄。たくさんのアリエナイを目撃してはイライラしてた。でも前職も在宅だったけど頭痛はひどかったし、今年は通勤以外のストレスが割と多めな1年だった。

2) 朝5時半に起きなくて良いというのは素晴らしい。でも前職も在宅だったけど(後略。あぁ、でも前職の時はヨーロッパ時間で生活してたからなぁ。。

3) 電車とオフィスの過剰なエアコンで自律神経が乱れるのは確か。でも前職も(後略。

4) オフィスとか店舗の蛍光灯の眩しさに煩わされていたのは確か。在宅が始まった当初は1Fに住んでいてテラスの前は擁壁だったので直射日光が入らず、これは大きな要因だったんだなと実感した。でも年初に引っ越してからは西日が差し込む時間が長いのでけっこう明るい。

5) これは大きい。最近は香害という考え方もだいぶ認知されてきているし、無香性の食器洗剤もあるぐらいなのでかなり助かってる。そして新居が思いがけず共用部禁煙なので、これまで散々悩まされた隣りのベランダや換気扇を通じてタバコの煙が入ってこないのは本当にありがたい。

と頭の中で色々と考察していたんだけど…

最近気がついたのは、一番大きな原因は外食をしなくなったのでMSGを口にする機会が減ったことかもしれない、ということ。

チャイニーズ・レストラン・シンドロームと言われているのは知っていたけど、先日久しぶりに外で旨味たっぷりのチヂミと純豆腐を食べて(チャイニーズじゃないけど)、食べた直後から食欲が暴走して、夜はイライラも酷くなって、翌日は片頭痛。こんなにあからさまなの!?と驚きました。

砂糖断ちをした時は甘みに敏感になったぐらいで体調に変化はなかったんだけどなぁ。

分断。

私の人生があの日で分断されているとつくづく思う。

あの頃は目指すものがあったし、自分の向き合い方を思い出しては、今との落差を感じてしまう。

今も仕事に対してはきちんと真剣に向き合っているつもりだけど、一日の中で、一週間でオン/オフがあるというのは、向き合い方が半分になったような、だけど対象は倍に増えたような妙な感じ。

こういうことを書いていると(誰かに話すのでもいいんだけど、つまり考えていると)泣きたくなるのは、やっぱりまだ納得できてないし、今でも悔しいから納得するつもりもないし、だけどもう諦めてはいて、もうあんな風にはなれないのだから、そろそろ身軽になった方がいいんじゃないのかなぁと思うのです。

と、ずっと…本当にずっと思っていたのに大枚叩いて買ってしまったわけで、だから捨ててしまったらきっと後悔するんだよね。

命日。

この年になれば普通のことかもしれないけれど、4人いた祖父母はもう誰もいない。生まれた時に全員揃っている上に父方の曽祖父母までいたというのは十分ラッキーなことだったと思うけれど、祖父母の家に遊びに行くのが好きだった私にとって、もう誰もいないというのは淋しいだけではなくつまらないことだ。

父方の祖母が亡くなったのは私が小2の時、祖母は57歳だった。お葬式は自宅で行い、まだ土葬だった。亡くなったのは1月だったので告別式当日、出棺を待つ間とても寒くて、気を紛らわすためにすぐ近くにあった伽羅木の葉っぱで手裏剣を作っていたことを覚えている。

祖母のことが大好きだった私は、亡くなってから何かの折に「毎日おばあちゃんのことを思い出すからね」と手紙を書いた。兄にはそんなこと出来るわけがないと言われたけれど、かなり大きくなるまで本当に毎日思い出していた。

その12年後の3月に父方の曾祖母が亡くなった。お葬式の日に99歳の曽祖父が泣いていたのが印象的だった。その曽祖父は、翌年の2月に100歳の誕生日を迎えてすぐ大往生。

そして13年後、今から9年前の7月。母方の祖母が94歳で亡くなった。亡くなる前日、危篤の知らせを受けて病院へかけつけた。別の階に入院していた祖父が車椅子でベッドのそばにきた時、祖母の手が祖父を探すように動き、祖父がその手を握っているのを見て、不謹慎かもしれないけれど初めて「結婚っていいものだな」と思った。

お葬式の時は、所在なげに座っている祖父の気持ちを思うと泣けてきたけれど、自分自身の悲しみとしてはさほど感じることが出来ず、むしろ晩年の祖母に対して優しくできなかった晩年のことを思って罪悪感ばかりが募っていた。

その翌年、どんなに身体が不自由になっても前向きに生きていた記憶力抜群の母方の祖父が、祖母を喪ってどんどん生きる気力をなくし、10月に98歳で亡くなった。最後の頃は身体中が痛いようで、ほとんど眠っていたけれど痛い痛いと悲鳴をあげていたので、楽になれて良かったなとホッとした。毎日とまではいかないまでも、頻繁にお見舞いに行くこともできたので自分の中でも納得できたし整理もついた。

2年続けて祖父母を失くすというのはつらいことだったけれど、これからまた少しの間は安心していられると思っていた。父方の祖父が一人で暮らしていることは気になっていたけれど、少し足腰は弱ってきたけれど農作業も続けているし、まだ10年単位で大丈夫だと思っていた。

そして年が明けて3月、震災が起きた。その場で祖父に電話をした。だいぶ時間が経ってからようやくつながった祖父は運転中で地震には気が付かなかったと言っていた。祖父らしいなと笑ってしまった。翌週、家に祖父の様子を見に行ったけれど、いつも通りの祖父だったので安心した。その後の余震で私の方が精神的に参っていたこと、ちょうど田植えの準備の時期で手伝うのが嫌だったことなどがあり、父は何度も行っていたけれど私はそれきり行かなかった。ゴールデンウィークには行くことが決まっていたからすぐまた会えると思っていたというのもある。

だけど、その前に祖父は事故で亡くなってしまった

今なら分かる。本当は祖父がすっかり年を取ってしまったことに目を向けたくなかったんだ。いつだったか、仕事関係の人が家に来てみんなでお酒を飲んでいた時に祖父がトイレに立ったのだけど、その足取りの危うさとそれを見た父が祖父のズボンのベルト通しに指を引っ掛けて、祖父が倒れないようにトイレまで連れて行った姿が頭から離れなかった。そんな姿を見たくなかった。だからこそ行くべきだったのに、行かなかった。そして心の準備も何もないまま、いきなり絶たれた。

祖父が生きていたら93歳。事故がなくてもまだ生きていたかどうか分からないけれど。もう心の中ではすっかり受け止めているけれど。今でも不意にトラクターを見たりウグイスの鳴き声を聞くと涙が出る。

そんな祖父の命日である今日。今年はまだウグイスの声を聞いていない。

夢を見た。

久しぶりに夢の中でケンカをして泣きながら目が覚めました。大学の恩師のところへ行ったら、私の良からぬ噂を耳にして会うのを拒否されたのだけど、強引に家に上がり込み、恩師に直接「なぜ私の言うことを信じず、噂の方を信じるんですか。あの時とまったく同じじゃないですか!」と食ってかかる、という夢。こんなにも時が経っても、信じてもらえなかったことをまだ引きずっているんだなぁと改めて思いました。

そして、そんな良からぬ噂を今さら恩師が耳にするわけがないのに、夢とはいえそんなシチュエーションになったのは、今年の5月にあらぬ疑いをかけられたことをよっぽど腹に据えかねているのだなと思いました。このまま忘れ去ることは出来ないかもしれないし、きちんと自分なりの落とし所を見つけないと何度でもぶり返すのだろうなと暗澹とした気持ちになっています。

ピアノ。

12年前、長年の相棒だったピアノを売りました。そのお金で一人暮らしを始めました。ピアノをやめて5年以上が経っていたし、別にもうピアノを弾かなくても全然平気だと思ってたのです。いや、正直に言えば、いつまでも家にピアノがあると未練を捨て切れないから、むしろその存在をなくしてしまった方がスッキリすると思ったんだよね。最初はまったく平気だったし、何年か経ってやっぱり指を動かしたいなと思った時も電子ピアノでじゅうぶんだと思ったし、実際買ったものの結局弾かなくなって、次の引っ越し時にサクッと売り払いました。

ピアノをやめる時、いつかまた戻ってやると思っていました。ピアノは私の人生を方向づけ、精神的にも物理的にも大きく拡げたけれど、その分、私の心を傷つけもしたし苦しめもした。今はピアノと向かい合うことは出来ないけれど、いつかまた戻るんだと思っていました。その間にはピアノを弾いていたら出来ない経験だってしているはずで、もっと幅の広い、懐の深い演奏が出来るようになっているはずだと。でも、あっという間に時が経ち、ピアノを売り払い、ピアノに戻るなど現実的ではないということも頭では理解していたけれど、それでも終わらせるつもりはなかったのに。せめてピアノを弾いてきた年月分が経ってしまう前にはと、ずいぶんと悠長なことを考え始めたのはいつの頃だったか。心のどこかでは、その間ずっと動かしていなかった指は、もうあの頃のようには動かないだろうことも分かっていました。

それでもピアノが欲しい、その気持ちはずっと心の片隅にあり続け、でもピアノを買う前に、ピアノを置く部屋が必要で、それにはマンションなり一戸建てなり、持ち家が必要なので、そうなると宝くじでも当たらない限りは無理だろうなぁと思っていたのです。その割には宝くじは買っていなかったけれど、それでも自分の部屋にピアノを置きたいというのは何度も忘れた頃にぶり返し・・・一体何年過ぎたのやら。

そんな夢物語のような存在になり果ててしまったピアノを、今回、本当に買うことを検討し始めたきっかけは、小中の同級生のお店へ行ったことだったと思います。当時は音楽なんてまったく縁がなかったはずの同級生が、お店でのライブに飛び入りで参加したのを見て、あぁ、音楽の楽しさってこういうことだよなぁって思ったこと。ピアノが置いてあるお店に行っても弾くことができない自分を不甲斐なく感じることは多々あったけれど、私がピアノを弾いていたことを知っている友人の前ですら弾けないことが、なおさらその不甲斐なさを強くしたんだと思います。あーやっぱりピアノ欲しいなぁ、こういうところでもサラリと弾けるようになりたい。そう痛感した3ヶ月後に行ったお店に、実はグランドピアノが置いてあり、マスターご夫妻といろいろお話をしていたのだけど、ちょうど、他のお客さんがいない時間があり、弾いていいですよと言ってくれたので恥ずかしいけれど楽譜も借りてポロポロと弾いてみました。

実は「あぁ、これはもう手遅れだな」と思いました。もう戻るには遅すぎる。分かり切っていたことだけど本当に痛かった。だけど、マスターは10年弾いていないということがどういうことかは分かるだろうと思ったので、もう恥を捨てていろいろな曲を弾いてみました。そうしたら、ほんの30分ぐらいだったんだと思うのだけど、指の重さが変わったのを感じました。まだ指が覚えてると思いました。やっぱり欲しいなと思ってしまいました。

そして、次の週末に中古ピアノ専門店へ向かいました。何十台と並んだピアノのあるフロアで、お店の方に希望を伝えました。欲しいものは決まっていたけれど、お金とスペースの都合で、それが買えるのかどうかは分からないし、そこまで思い切れるかどうか覚悟も決めていませんでした。絶対に譲れないのはサイレント機能が付いていることなのだけど、グランドピアノなのかアップライトなのか、ていうかそもそも本当に買うの?そんな状態の私に、ダーリンもお店の人も根気よく付き合ってくれました。

私が一番欲しいのは入荷してもすぐに売れてしまう人気商品。前日にも売れてしまったけれど、実はまだリストに載せていないのがリストア前のが一台あるらしい。でもグランドピアノとしてはグレードの低いもので、それであればアップライトの高級グレードを買った方が良いのではという意見もありました。それでも、やっぱり今更アップライトなんて無理だし、そこで満足できるわけがないことは分かりきっているのです。その差20万円ほど。その程度であれば、やっぱりグランドなんじゃないかなと思う気持ちはあるけれど、次に引っ越す時にネックになるんだろうなと思うと決めきれない。私もダーリンも家を買うことにはまったく興味がないというところでは一致しているのだけど、ピアノということだけで考えると、私は恵まれた家で育ったんだなぁと思わずにいられません。とりあえず1週間ぐらい考えさせてください、と言ったら、4~5日で決めてくださいと言われ(笑)、とりあえず両方の見積もりを出してもらい、もしかしたらどちらも買わないという決断もあり得ることも匂わせつつ、長時間付き合ってくれたおじさんに感謝して辞去。

と言いつつ、帰りの電車に乗る頃にはグランド買うって思ってたけど。でも思えば思うほどどんより。何がどんよりって貯蓄額が減ることです。だって自転車買ったばっかりだし。ピアノ買うために貯めてたと言っても過言ではないはずなのに、こんなに大きな買い物をしたことがないので、お金を使うということに凹むのです。でも、買わないとますます思いが募るだけなので、意を決して買わないと!

というわけで、翌日「グランドにします!」と電話しました。オーバーホールし終わったら配送日を決めるための電話をするので、それまでに支払いを済ませることを約束して契約成立。1ヶ月はかからないということだったけれど、お盆もあるので配送業者との兼ね合いもあり日にちは予測できず、でも先日、6日以降いつでもという連絡がきたので、6日で!とお願いしておきました。毎日、早く6日にならないかな、早く時間が過ぎないかなと思い続け、ようやくこの日がやってきました。

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玄関から入れるのに苦労していたのでどうなることかと思いましたが、組立はあっという間でした。脚を取り付け・・・

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2ヶ所取り付けたところで起こしてから

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最後の1本を取り付けるのですね。

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仮置き。

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置く位置を決めてからペダルも取り付け。

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完成!

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ここまで長かったなぁ。再びピアノのある生活が始まります。

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ダーリンはもちろん、我が家の猫もピアノとともに暮らすのは初めてなので興味津々。

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何これーー。

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すべすべー。冷たいーー。テンション上がってます。

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爪は立てないでね?

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これはボクの特大ひんやりマットに違いない。

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気に入ってくれたみたいで何よりです♪

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そこは乗っちゃダメなとこ。

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せっかくなのでワインで乾杯♪

HOT麦茶。

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願わくば、HOT麦茶が(伊藤園に限らず)ごくごく普通の通常商品になりますように。あまりにも入手できるお店が少なすぎます。

記憶。

真夜中、久しぶりに泣く夢を見た。大学院受験の教室で、審査員たちのあまりの白け具合に、あぁ落ちたな・・・と思った後、場所も時も変わって、たぶん今の年齢になっていたのだと思うけれど、母に「私がピアノをやめなくちゃいけなかったのは、ただ才能がなかったからだね」と泣きながら自分で認め、母の悲しそうな顔を見たところで目が覚めたら、現実にも泣いていた。目が覚めてからも、そうだよなぁ・・・あんな程度の演奏しか出来ないんだもん、続けてても仕方なかったよなと思って、さらに泣けてきたので、温かい飲み物でも飲んで落ち着こうと起きて、一口飲んで我に返った。これは本当の記憶じゃない、ただの夢だ。

実際の記憶はこっち。もちろん確かに「あぁ落ちたな・・・」と思った試験もあったけど。でも、それはもうやめると決意をした後のことだし、練習もせずレッスンも受けず、やる気ゼロで向かったので当然の結果。

大学の恩師の母国へ留学し、初日から40度近い熱を出したことも、練習用のピアノが見つからないことも、師事するはずだった教授が不在の間、同い年のアシスタントからレッスンを受けることも耐えたのに。戻ってきた教授とのレッスンは楽しかったけど、冬季は3ヶ月ほど学校が閉まると聞いて、この国にはこれ以上いても無駄だと帰国することに決めた。

次に行く先を求めてウィーンで先生探しをした時には、大学の(見ず知らずの)先輩を頼って面識のない先生のレッスン室のドアを叩いてピアノを聞いてもらい、君は日本人にしては感情のこもった演奏をするねと気に入ってくれた教授の自宅レッスンを受けたのだけど、レッスンを終えた後のお茶の時間に教授が笑顔で私のピアノについてコメントをしてくれていたのに、それを訳してくれた教授の妻(日本人)曰く、あなたには才能がない。曲に感情がまったくなく聴いていても心に何も響かない、はっきり言って音楽を演奏する資格がないと思うとのこと。もうピアノはやめます、これ以上続ける気力がありません、と泣きながら(前述とは別の)恩師に伝えて日本に帰国。現地でピアノを貸してくれた日本人調律師にお礼と報告の電話をかけると、いくらなんでもそんな言い方をするわけがない、そう思っているならそもそもレッスンなんてしなくてもよいわけで、彼らはドライだから受からないと思う人には気を持たせるようなことはせずきちんと伝え、受験目的のレッスンはしないはずと言われた。数日経って改めて電話をかけてきてくれたところによると、その教授の妻は自分が生徒の時に略奪婚をしている(しかも自分で3人目)ので、日本から生徒が来るとそのような嫌がらせをするとのこと。そんなところへ師事する気にはならないので願書は取り寄せたものの、出願はしなかった。

最後のチャンスとなったアメリカでは、私の母校で教えていた外国人客員教授から、紹介はできないけれど自分の名前を出せばピアノを聞いてくれるぐらいのことはしてくれるだろうと自分の生徒の元恩師の名前を挙げてもらい、その先生のいる大学の事務局からメールアドレスを教えてもらい、ぜひピアノを聞いてほしいというメールを送ったら、1月はこの1週間しか自宅にはいないので、そこに合わせて来られるのであればレッスンしましょうとのこと。また恩師の遠い親戚がたまたまその大学にいるので紹介してもらった。もし今回レッスンを受ける先生が気に入ればいいけど、もし合わないと思えば別の先生を紹介してあげると言われ、心強い味方を得た気がした。実際に、その先生のレッスンを受けて、ぜひ生徒になって欲しいと言われたし、先生自身もとても素晴らしい演奏をする方だったのだけど、ブラジル出身でラテン系のレパートリーが多く、その先生が演奏するととてもかっこ良いのだけど、ドイツ系の作品に合う私の音では弾きこなせる自信がなく、とりあえず別のアメリカ人の先生も紹介してもらうことにした。そして、そちらの先生にも気に入られ、入試までの間、レッスンをするからずっと滞在していなさい、そして新学期が始まる9月はちょっと演奏ツアーに出るから、ビザ取得のために一時帰国する必要があるだろうけど、新学期前にレッスンしたいからまたすぐ渡米しなさいとまで言ってくれた。そしてホテルを出てホームステイをしながら何度かレッスンを受け、2月の試験当日。バッハの平均律に始まり、ベートーヴェンソナタ、シューマンの幻想曲、ガーシュウィンのプレリュードを弾き、ノリノリの雰囲気で試験を終え、会場を出たら後ろからブラジル人の先生が追いかけてきてハイテンションで絶対キミを生徒にしたいと言い、角を曲がったらアメリカ人の先生が待ち構えていて、ブラジル人の先生には私から話しておくから、キミは私の生徒だよ、と言って去って行った。

本当はすべり止めのつもりだったこの大学で、とても楽しく過ごせそうな気がした。実際、試験までの1ヶ月間滞在をして、あぁここが私の居場所だと感じたこの場所でようやくのびのびピアノが弾けるんだなぁと思いながらも、一応本命のもう一校の試験が1ヶ月後にあり、まだ一度もレッスンを受けていない課題曲もあり、一度帰国をしたその夜。恩師に報告の電話をしているところへ、恩師の親戚から恩師宛にキャッチホンが入った。それが三度目の悪夢の始まり。

その夜、何度恩師に電話をかけてもつながらず、そんなに長く何を話しているんだろう。その夜は遅くなってしまったので諦め、翌日の夜再びかけ直すと、恩師の旦那さんが出た。「あぁ・・・◯◯さんね。ちょっと待っててくださいね。」長々と待たされた後、恩師の「アナタ、なんてことしてくれたの」という怒りの声が聞こえてきた。

前夜の親戚からの電話は私に関する苦情だった。私がいかに礼儀知らずだったか、いかに遊び呆けていたか、いかに他の日本人留学生たちに悪影響を与えたか。そして挙げ句の果ては恩師の悪口を言っていたと。どうやったらそこまで嘘をつけるのか、未だに理解に苦しむほどのデタラメばかり。それぞれ語った出来事は確かにあったことだけど、私の取った行動や結果はすべて嘘。人が悪意を持って嘘をついたり人を傷つけようとすること、恩師とはその頃すでに10年近い付き合いだったにも関わらず何をどう説明しても信じてもらえなかったことの両方がショックで、本当に久しぶりに声を上げて泣いた。

何も悪いことをしていないのに、なぜこんな目に遭うんだろう。ピアノなんて弾いているからこんなに嫌な目にばかり遭うんだ、今度こそ本当にピアノは辞める。とりあえず飛行機とホテルを取ってしまっていた学校の入試だけ受けに行き、もちろん玉砕した後、アメリカ人の先生には長い長い手紙を書き、もう普通に働こうと仕事探しを始めました。英会話教室の受付を始め、それなりに楽しんでいた夏のある日、アメリカ人の先生から手紙が届いた。しばらく家を空けていたけれど、ツアーの合間に家に戻ったら出したつもりでいた返信の封筒が食卓の上に置いてあるのを見つけて慌てて書き直していますという書き出しで始まり、一人の、私の専攻には関係のない人との誤解が理由でアメリカで学ぶチャンスを棒に振るなんて間違っている。事務局には私から掛け合うからもう一度I-20(入学許可証)を発行してもらって今すぐアメリカ大使館の予約を取りなさい、という内容だった。誤解、misunderstandingという一言で片付けるにはちょっと事が大きい気がしたけれど、わざわざ改めて手紙を書き直してくれた先生の気持ちが嬉しくて、先生に電話をかけ、学校にも電話をし、クラス分けの試験は先に受けに来てもらわないと困るけど、そのあとはいったん帰国して学生ビザを発行してもらってから入学手続きを始めるからと学費納入期限を延ばしてもらい、夏休み中の8月末に再び渡米。クラス分け試験を受け、入試の時に仲良くなった別の大学に留学して(転校するために受験して)いた日本人の女の子と一緒に廊下を歩いていたら、夏休みでいないはずの恩師の親戚が前から歩いて来た。その瞬間の、私はもうこの学校には来ないと思っていた相手の「やばっ」という表情と、顔を見た時の自分の怒りと殴りかかりたいほどの衝動を目の当たりにして、この状況で2年間ここで過ごすのは無理だと悟り、それまでは何も悪いことをしていないのにと思っている自分が実は一番嫌なヤツで、アメリカでもウィーンでも気付かないうちに相手を不快にさせていたのかもしれないと思うことも増えていたけれど、あの一瞬の表情を見て、あぁ、やっぱり理不尽な嫌がらせをされたんだなと思い、隣りを歩いていた子も、私の話を聞いてもこちらに非がないのにそんなことする人がいるのか半信半疑だったけど、あの表情見た?やっぱりまゆみちゃん悪くないよ。悪だくみを見つかって今にも逃げ出しそうな顔してたよねと言ってくれたのを聞いて、ようやく自分には非がなかったんだと思えた。

日本に帰って、I-20を破り捨て、ピアノからは離れようと決めた後、某社で秘書として働き始め、ピアノを弾いていない私のことを受け入れてくれる人たちがいるという今から考えればごく当然のことが嬉しくて、この人たちにピアノを聞いて欲しいなと思い、その社屋の向かいにあるビルのオープンスペースで友人とデュオコンサートを開き、その日を境に一切ピアノに触らなくなった。

これが(もうずいぶん前のことなので記憶も曖昧にはなってきてるけど)ピアノをやめた本当の理由。夜中に目が覚めた時の「入試での手応えのなさから自分の才能に見切りをつけた」という夢が記憶にすり替わりそうな感覚があまりに怖かったので、一度書いたはずだけどどこかに消えてしまったこの一連の出来事を改めて文章に書きだすことにした。すっかり克服した気になっていたけど、やっぱり今でも痛いなぁと文字通り痛感した。

TEAVANA。

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TEAVANAのスリーブは、なんとなく安っぽいというかフードコート感がある・・・と思ってしまいました。ゆずシトラスとネクタリンピーチをどちらもホットで。美味しいけど、やっぱりホットココアが美味しくなくなってしまった喪失感は埋められません。