2011年4月6日(水)、祖父が他界しました。
享年86歳。一般的には平均寿命を越えているし、じゅうぶん生きたと言えるのでしょう。でも、うちは両親ともに長生きの家系で、父方の曾祖父母は100歳と96歳、母方の祖父母は98歳と94歳まで生きました。祖父も90歳になったら引退して、その後20年は何もせずにのんびり暮らすんだと言っていたほどで、80代での死は、家族の誰にとっても早すぎるものなのです。
オンラインでは「死」と「宗教」については語らない、をポリシーにして長年ブログを書いてきました。だけど、今回のことはあまりに衝撃が強く、未だに受け入れることができません。しかも、3年連続で祖父母を見送るというのは、そろそろ許容量もギリギリとなっており決壊寸前なのです。きちんと文字にして吐き出さないと消化することが出来ず、いつか自分が壊れてしまうのではないかという恐怖心すらあります。震災以降しばらくは、常に地震のことしか考えることが出来ず、それはまるで子供の頃にいつか親がいなくなるということを事実として気づいてしまった時の気持ちに似ていました。その後も、遠い将来のいつかではなく、父や母がある日突然殺されてしまうかもしれない、という恐怖に取り憑かれたことを覚えていますが、今はまさにそんな心境だったりもします。私にとってブログを書くという行為はセラピーやカウンセリングの代わりでもあるので、タブーを破って思い切って書いてみようと思います。
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その日、私は午後から病院に出かけていました。帰り道、同じく出掛けていた母と合流しようかなと思って、電話をかけたもののつながらなかったので一人でアフタヌーンティーでのんびりしていたのですが、そのまま母との合流はあきらめて電車に乗り、隣りの駅から歩いて帰ろうとしたところで母からのメールを受信しました。
「いまどこ?」
「駅から歩いて帰るとこ。」
「おじいちゃんがトラクターから落ちて救急車で運ばれたので今から病院に行きます。運転してください。」
マジですか・・・トラクターから落ちたってトラクターを運転中だったのかな・・それとも停まってる時だったのかな・・単に落ちただけ?それとも・・・一瞬でいろんなことが頭を駆け巡ったけど、とりあえず歩いて帰るのはやめてタクシーで帰宅することに。家に着いて雨戸を閉め、猫のエサを用意していたら母が帰ってきたけれど、親戚に電話をもらった父からの電話での情報だけで、県立病院に運ばれたことと、とりあえず大丈夫らしいという以外は状況がまったく分からず。父はまだお客様先で打ち合わせ中で、祖父は“大丈夫そうなので”打ち合わせが終わり次第駆けつけるということで、一足先に母と私で向かうことになりました。そして、出発後しばらくして、母が携帯を確認すると、父からの着信があったので折り返してみたけれどつながらず。その後また父から着信があり、「どうしたの?」と出た母が「えーーー?」と大声を出しました。しばらく父の話を聞いた後、ボソリと「おじいちゃん、亡くなったって。」
「え・・・?ダメダメダメ!!!嫌だ、絶対やだ!」・・・というようなことを言ったような気がします。正直、号泣どころの騒ぎじゃなかった。「とにかく車停めて。」と母に言われ、細い道なのに駐車して。とりあえずいったん家に帰ろう。お母さんが運転しようか?泊まることになるだろうから喪服も一応持って、ネコを置いていく準備もしてから出直そう。夕飯も買っていかなきゃいけないから、ヨーカドーに寄っていこう。親を二人とも見送ったばかりの母は、一瞬で冷静になってくれました。でも、もう1年半近く運転が出来なくなっていた母に1時間の道のりはきついだろうと思ったので自分で運転することにして、まずは家に帰りました。祖父はすでに病院を出され自宅に戻っているということだったので、諸々を済ませて祖父の家に着いたら、すでに父も到着していました。(一緒に打合せに参加していた方のハイヤーを使わせてくれたそうです)
祖父は田んぼの見回りをトラクターでしていたらしく、田んぼにトラクターごと落ちてしまったらしいこと。田んぼの近くを通りかかった近所のおばあさんが、目の前の家に駆け込んで救急車を呼んでくれたこと。搬送先が決まるのに時間がかかりなかなか救急車が出発しなかったこと。胸をハンドルに打ちつけて、肺挫傷を起こしてしまったらしいこと。近所の人は父の連絡先が分からず、祖父の弟へ連絡が行き、祖父の姉(故人)の家族が父へ連絡してくれたこと。病院には近所の人と、祖父の弟一家が行ってくれて、その弟一家の車で自宅まで祖父を連れ帰ってくれたこと。当日はその程度のことしか分かりませんでした。それでも、祖父は苦しそうな顔をしておらず、まるで眠っているかのようでした。その日は祖父の家に泊まりました。もうかれこれ20年ぐらい泊まったことがなかったのに。もちろんほとんど眠ることはできなかったけれど・・・
翌朝、祖父が転落したという場所に父・叔父と一緒に行ってみたら、田んぼの端っこに、祖父のトラクターがそのまま停まっていました。
田んぼの横に3メートルぐらいの高さの舗装された道路があるのですが、そこから落ちてしまったようです。
その道路の脇は雑草の生えた急な斜面になっており、その斜面にはタイヤの跡が残っており、田んぼの地面にはトラクターの座席の背もたれの上にある鉄柵がぶつかった跡が、さらにその鉄柵には土が付いており、それらのことを総合して考えると、トラクターは斜面を滑り一回転をして元に戻ったことが推測されます。父がエンジンをかけてみたらきちんと動いたので、ひとまずトラクターを自宅の庭に運び、そうこうしているうちに近所の方たちが家に集まり始めました。
我が家は特に由緒ある家柄ではないけれど、一応、地元では「本家」として名が通っており、祖父は本家の長男として、近所を取り仕切っているところがあったようです。あの地域は、長年自宅で葬儀を行い、火葬ではなく土葬をしてきたところで、特に我が家は平成に入ってから亡くなった曾祖父母も自宅で葬儀をした後、土葬にしました。ところが、ここ数年は近所に斎場も建ち、保健所もそろそろ土葬を認めなくなってきたとのことで、祖父とも、近所の人たちも兼業農家が増え、自宅での葬儀は負担が大きいので自分の代からはお葬式も斎場でいいし火葬にするしかないだろうなという話をしたことがありました。とは言ってもその地域ならではの葬儀というものがあり、少なくとも私が住んでいる場所よりは近所の人たちの手を煩わせることになるようで、まずは葬儀の方針を決めるために話し合いに来たのでした。
祖父の住んでいる町には約60軒の家があり、それを4つにグループ分けしています。祖父が属していたグループの家の人たちが来てくれたので、少しずつ事故の状況が分かってきました。最初に発見してくれたおばあさんは、祖父がトラクターによじ登るところから見ており、運転席に座るとハンドルに突っ伏してうずくまってしまったので、苦しいんだろうと思い、すぐ目の前の家へ駆け込み、そこの家の人が救急車を呼んでくれたそうです。その後、救急車が到着して、祖父は救急隊員の方とも会話ができたけれど、痛い痛いと騒いでいたそうです。近所の方たちは、口が利けるんだから大丈夫だろうと安心したと言っていました。
病院に駆けつけてくれた親戚と近所の人によると、病院についても祖父は意識があり手術をするために麻酔をかけたそうで、そのため苦しそうな顔をしていなかったことも分かりました。手術の結果、肋骨が全て折れて肺に刺さっており、肺は潰れてしまったそうです。その肺を戻そうとすると出血がひどくなり、どうすることも出来なかったとのこと。心臓からも出血があったそうです。祖父の弟の奥さんが、手術室から様子を伝えに来てくれた看護師さんに「せめて一週間でいいから子供たちが話が出来るようにしてください」とお願いしてくれたらしく、看護師さんも「分かりました」と答えてくれて、本当によくしてくれたそうです。
お通夜の日。
父が知らせを受けた時に一緒にいた方たちが連絡をまわしてくれたらしく、その方たちはもちろん、祖父の家に遊びに来たことがある父の元部下たち、さらにはこれまで一緒にお仕事をした会社の方たちも遠くから駆けつけてくれました。私も本当は祖父のことを大好きだと言ってくれた元上司に連絡をしようと思ったけれど、何度もメールを書きかけては、何と書けばいいのか分からず途方に暮れてしまい、どうしても送ることが出来ませんでした。
従妹が用意してくれた祖父の遺影が、あまりにいつもの祖父で、通夜式の間は、どうにもこうにも涙が止まりませんでした。その夜、斎場にいる祖父のところには叔父と従弟が泊まってくれることになり、私は両親と一緒に祖父の家に泊まりました。夜中、父の怒鳴り声で目が覚めました。私の勝手な想像ですが、おそらくトラクターが落ちるのを止めようと焦っている夢を見ていたのだと思います。そんな感じの寝言だったのです。
翌日。
通常はお通夜の前に火葬をしてしまうらしいのですが、震災の影響で県内の火葬場がいくつか使えなくなっており、その流れで火葬場がとても混み合っているらしく、告別式の前に火葬をすることになりました。朝早くから火葬場へ向かい、最後のお別れを済ませ、その後告別式を行いました。これまた大勢の方が参列してくれて・・・お通夜も告別式も、斎場の収容人数を越えてしまったほどです。近所の方たちも斎場の方も「こんなの初めてだ」とビックリしていました。
そして、お清めの席でのこと。
実は亡くなったその日から、近所の方たちからは遺族への労わりの言葉がありませんでした。むしろ、父も叔父も責められ続けていたのです。二人とも地元を離れてしまい、近所の方たちが一人暮らしの祖父を支えてくれていたのは事実です。だけど、親の最期に立ち会えなかったことを一番悔やんでいるのは本人たちなのに。駆けつけるのが遅くなってしまったことについて、何度も言われました。父は電話でも怒鳴られたそうです。怒鳴った人は、父がその時点では「単なる軽い骨折程度」としか思っておらず、そもそも「大丈夫だと言われていた」ことに気づいて謝ってくれましたが。
私がその人にお酌をしに行った時、返杯のビールを断り日本酒を頼んだのですが「うゎー、あんたか、酒豪の孫は。」「この子は怒らせるなってじーちゃんが言ってたわ。」と言われました。おじいちゃんてば何てことを・・・(汗。その後も、甥を紹介して、「このおじちゃんが、おじいちゃんが痛い痛い言ってた時に一緒についててくれたんだよ。」と言ったら、「もう言わねーでくれ、責められてる気分になる・・・」とまで言い出す始末でした。そんな中でも、「この人たちと飲んでいるのに、なんで祖父がいないんだろう?」ということが頭から離れませんでした。
さらには、「それでこの家はどうするんだ」としつこくいろんな人に言われました。それはあなた達にとやかく言われる話じゃない。そもそも、今する話なのか?そう思ったけれど、父が黙って聞いている以上、孫の私がとやかく言うべきではないのでしょう。
だけど。
今さら言っても遅いけど、実は私、昨年、実家に戻った頃からずっと、祖父と一緒に暮らすことは可能だろうか?と誰にも言わず、ずっと自問自答していたのです。自分自身の我儘ももちろんあります。父の会社に大きな仕事が2件入ったので外で働いていた仕事を辞め、実家に戻ってきました。(私の方にも辞めたい理由が多々あったので、それ自体は問題ないのですが。)だけど、親と暮らし、親とだけ仕事をする生活ってどうなんだろう?って思うわけです。それはもちろん外で働く前、親が独立した頃にも思っており、その後も何度となく心の中で葛藤を繰り返しています。いつかは家の仕事を手伝う、だけど住まいまで一緒にするというのはどうなんだろうとずっと思っていました。さらには、母との関係も実は綱渡りだったりするので、その苛立ちもあります。先日も母に対してブチ切れたことがありました。
大きな仕事が入った。だから、マンションを買える日も近い。それなら別々に住むことができる。そう思って戻ってきたはずなのに、この業界は話が持ち上がってから契約までが本当に長い。ほぼ決まりの状態で実際に父が動いているにも関わらず、契約まで至らないこともある。今回はそれ以上の確率だったのに、結局、1件は流れそうな気配。そんなこんなで、再び家を出られる日なんて来るのか?この近辺でいいから、賃貸でいいからまずは家を出させて欲しい。でもそうやって無駄なお金を使って、マンションを買う日が結局遠のくんじゃないのか。
だったら、おじいちゃんの家に住むっていうのはどうだろう。というぐらいの軽い思いつきだったのは認めます。だけど、一緒にドイツ旅行をした時の祖父の奔放っぷりを思うと、無理としか思えない。(田舎の一人暮らしだから当然なんだけど、同居人に対する配慮だとか他人の目を気にする姿勢というものが皆無だったのです。)しかも、虫が嫌い、農業なんて絶対無理、と思っている私が外も同然のあの家で暮らすなんて無理に決まってる。
だけど、最近の祖父は足腰がかなり弱ってきていて、一人で暮らすのもかなりギリギリでした。だからと言って我が家で一緒にというのは絶対ダメだと分かっていたので、いざと言う時は、父が実家で同居することになるのかなと思っていました。仕事が忙しくてどうしようもなければ、近所の人もいるであろうケアハウスに入ってもらうことも選択肢のひとつでした。(母方の祖父母と同居をしたことで、止めた方がいいと思うようになりました。ケアハウスに入ってもらうことも、背水の陣とでも言うべき最終手段だと思っています。自分たちの都合ではなく、年を取ってから一緒に住んだら祖母があっという間にボケたのを見たからです。娘の家であっても遠慮があり、自分はお客様に過ぎず家事に手を出してはいけないと思ったようです。悩みに悩んで、一度自宅に戻した途端に主婦の顔に戻ったのです。
さらに数年後、もうさすがに二人暮らしは無理だろうと心配のあまり、うちの近くのケアハウスに入居してもらったのですが、これまたあっという間に介護レベルが上がり、それでも祖母が生きていた時は祖父はしっかりしていたのですが、祖母が亡くなった途端に「考える」「思い出す」といった行為を諦めてしまい、亡くなるまでの1年間に、これまた介護レベルがあっという間に5になってしまいました。)
父はまだまだ仕事がある。私の場合はインターネットとPCさえあれば、どこでも仕事はできる。だったら、祖父の家に住むという選択肢もあるんじゃないだろうか。親と住むのも、祖父と住むのも、私の交友関係が狭まることには変わりないんだけど。震災があって、こんな大変な時に、祖父をまだ一人にしておいていいのだろうかという思いが強くなったところだったのです。だけど、覚悟が決まらず、誰にも言い出すことができずにいました。
父の仕事はようやく1件契約まで行ったので、これから忙しくなる。叔父も震災が起こったために3月末で定年になるはずが1年延期になってしまった。祖父のことも農業すらも好きだと思っている従妹弟たちは、みんな仕事を始めたばかりで、思いは強いけれど、自分自身のこともままならないはず。だったら、一番身軽で、これまで好き勝手してきた私が、もう一度方向転換するのも“アリ”なんじゃないのか。農業はできないけれど、家を守ることはできるんじゃないだろうか。
そう思って、母に言ってみたんだけど、もちろんあっさり却下されました。
「お風呂さえ直してくれたら、あとサッシをつけてくれさえすれば、私が住めるのにね。」
「無理。」
少しずつ少しずつ、私がその気になっているということを小出しにすればするほど母の反対も強くなっていきました。最近、浮浪者がいるんだそうです。寝る場所を探しているそうです。斎場への道案内と日時の告知の立て看板が出ていたために、祖父の家が空き家になることもたぶん知られてしまったはずだと。近所の人が心配しているのもそこで、住み着かれるだけならまだしも火でも出されたら困ると。
祖父の家は、築180年の茅葺屋根の古民家です。家の外壁というものが存在せず、すべて窓なのです。しかも、ガラスサッシではなく、障子。その外側は庭に面している部分だけが木の雨戸。防犯に役立つ設備が皆無なのです。そんな中、祖父は雨戸も閉めず、冬でも障子だけで過ごしていました。さらに、ここ数年は寝室へも行かず、掛け布団すら使わず、炬燵に足を入れて一人雑魚寝。年中、人が出入りしていたとは言え・・・夜は森に囲まれて真っ暗なのに。
そんな状態の家だとしても、もし私が男だったら、何の心配もなく住むことができたと思う。親が心配したとしても、押し切ることが出来たと思う。お清めの席で、近所の人に父が散々文句を言われているのを見て、私が不満げにしていたら兄に気づかれました。そして、母から私が住みたいと言い出してると聞き、大反対されました。分かってるよ、どんなに思いが強くたって私には出来ないことだってことぐらい。私が住めるように祖父の家の防犯設備を整えるお金があるんだったら、別にそれだけで、もう誰も住まなくたって大丈夫だってことも。
だけどさ、よりによって「親鸞」を持ち出して反対するとか・・・何なんだよって思うじゃん。人生には行きと帰りがあって、行きは自分のためだけに進むんだって。周りで大切な人が苦しんでいようが、心を鬼にしてとにかく前に進むんだって。その代わり、帰りは相手を区別することなく、すべての人を助けなくてはならないって。どんな人でも、たとえ人殺しでも救うことができるぐらい器の大きな、何でも出来る人間になるため、行きは精進に励まないといけないんだって。
兄には家族がいて、守るべきものがあって、だから親やその親のことまで手が回らないって言われた方がまだ納得できる。そもそも、兄が何もしない(できない)ことについては何の感情も持ってない。だけど、哲学とか大それたことを持ち出しておいて、単に自分の逃げ道を作ってるだけじゃん。自分の言い訳をしているだけじゃん。私は、たとえ行きだろうと、自分が手一杯だろうと、大切な人が困っていたら、苦しんでいたら手を差し伸べるし、そのために自分が遠回りをすることになったって構わないと思ってる。自分のことを大事にできなくなっていたこの数年ですら、それだけは曲げずに生きてきたのに。・・・兄のことはともかくとして(兄の反対は私にとってさほど重要ではないので)家一軒守れない自分が不甲斐なくてたまりません。
葬儀が終わってこの1週間、ほとんど毎日祖父の家に行っていました。父と一緒に泊まることもあれば父の送り迎えだけをして家に帰ってくることもありました。祖父が亡くなって以降、父は泣いていません。でも、祖父の話しかしません。悔しかったり淋しかったりはしていますが、一生懸命自分を納得させようと努力をしています。祖母が亡くなった時、父はとても荒れました。若かったし病気で苦しんだせいもあるとは思いますが、むしろ苦しみを取り除くことが出来たと思えるし、父も一生懸命看病をしていたので心の準備は出来ていたはずなのにです。
祖父と父はとても仲が良く、二人で飲んでいるといつまでも話が尽きないようでした。独立した後、祖父にもお給料を渡せるように、会社の定款に「農業」も入れたので会社員時代よりも実家に顔を出す機会が増えました。ようやく祖父に楽をしてもらえるようになった矢先だったのに。大きな仕事が入ったら、祖父に人生初のボーナスを渡そうと思っていたのに。
震災後に様子を見に行った日、最後に会ったあの日、いつもする別れ際の握手をしませんでした。なんでしなかったんだろう。地震の不安でなんとなく気持ちが落ち着かなかったのは覚えているけど。断水で、自分のことよりも田植えが出来るかどうかばかり気にしていたおじいちゃん。用水路は問題なく稼動することになり喜んでいたおじいちゃん。
その日は朝からやたらと張り切っていたそうです。救急隊員の方の調書を取った警察官が教えてくれました。祖父自身が「運転間違っちゃったよ・・・」と言っていたとのこと。一回転したトラクターから1メートルほど放り出されたけれど、着地したトラクターのエンジンがまだかかっていたので自分で運転席に登ってエンジンを切ったそうです。運転間違えたって何だよ・・・全然間違えるような道じゃないじゃんか。祖父の近くにタバコが落ちていたらしく、ライターを取り出そうとしてたのかなぁ・・・とみんなで話しています。
最後にやりかけた仕事は、近所の方たちのご協力で田植えをきちんと行い、お米の収穫まで頑張ることになりました。おじいちゃんと最後に食べたすき焼きを今度の田植えの時に食べたいということになったそうです。ゴールデンウィークにすき焼きかぁ・・・おじいちゃん、ホントに人気者だったんだね。